職場について②

一つは、あきらめる手放すという気持ちを持つこと。これは否定的な意味ではない。仕事自体を諦める、手放すということではなく、自分の考え思いをということだ。人とはこうあるべきだ、なぜこうならないのかというこだわりや執着を捨てることだ。周囲が自分の思うとおりになどなるはずないし、そこに労力を費やすより、自分の仕事を遂行し、目的を達成するための手段とみることだ。人を手段とみること、それは心ないことと思われるかもしれない。しかし、仲良しごっこをするのが仕事の目的ではなく、自分の属している会社や組織の目的達成のため、個人個人に課せられたものを遂行するのが仕事だ。その対価として給料をもらえる。

 

円滑に仕事をするために、最も障壁となるのが人間関係の摩擦だ。摩擦とならないためには潤滑油が必要であり、それがコミュニケーションの力という結論になる。耳や目が腐るほどこの世界のいたるところで喧伝されている理屈だ。

 

しかし、僕の言うコミュニケーション力はあくまで組織で摩擦を極量生まないというもの、つまり、人と仲良くなるためという意味は皆無に近いほど含まれていない。実に機械的に、目的の遂行ただそれだけのためにコミュニケーションを活用するという考えだ。人に認められたいとか、仲良くなりたいとか、そんなことを仕事に持ち出すから苦しくなる。孤独に耐えられないから、人との距離と縮めようとする。そもそも距離など縮めなくていいではないか。仕事するために職場に来ている。それ以外を求めるから苦しくなる。

 

自分は一人。人生は一人で歩んでいくもの。一人で生まれて一人で死んでいく。家族ができても、心のどこかでこの考えを持つと、過剰に依存しなくなる。それは家族にとっても負担(心理的、家事的様々)が減り、良いことづくしだ。しょせん一人なのだから、周囲に過度な期待を抱かなくなり、周囲の言動も受け流せるようになる。それでも、視覚や聴覚から入ってくるノイズに心を持っていかれることもあるだろう。最も有効な方法は、「所詮ひとり」と心のなかでつぶやき、ノイズの元となる場からそっと離れること。しばらくその辺をうろつき心を整えるのだ。原因の場所から距離的に離れれば離れるほど、あらら不思議、平穏さが戻ってくる。

 

ただ、自分の力ではどうしようもないこともあるだろう。例えば、他人に攻撃的な人など。悪口や嫌みを言わずにはいられない人はどこにでもいる。そういう人にまともに対抗しようとしてはいけない。勝負に勝とうなど思ってはいけない。ひたすら我慢しろということではなく、目に余るようなことを実際に見たり訊いたりした場合は、すべて記録を取り、しかるべき所に報告することだ。直接、相手をへこませてやろうなどとは思ってはいけない。組織の権威の力を活用しよう。その人ととの関係が一端こじれてしまうと自分自身が攻撃の標的になりかねない。そうなると職場に居づらくなるし、徒党を組んでいじめに発展することも考えられる。とにかくうまくやることだ。

職場について①

人は食うために仕事をする。僕もそうだ。

 

組織や一つの社会に身を置くと、その中の特有の考え方や慣習が染みついてくる。そしてその中のルールに沿って言動を弄していれば、それなりに周囲に認められ仲間扱いされる。それを大人のマナーや常識と名付けるべきか、軽薄な処世術と言うべきか。

 

人が集まって集団を成している以上、集団への妥協は必要だ。深いことや難しいことを考えてしまう人ほど、苦悩することになる。自分はこの中で自分を表現しているか、自分に負けていないか、くだらない愛想笑いをしていないか、孤独になることに耐えきれず、一瞬の周囲の歓心を買うために話すべきでないことをしゃべっていないか。

 

あまり細かいことにこだわらず、周囲に身を委ね、合わせることが職場でのうまいやり方だ。皆、周囲の目を過剰に意識するし、世間体を大事にする。それゆえの行動や言葉に陥るのはやむをえないこと。「あなたの人間の奥が見たい、本当はもっと違う考えや気持ちを持っているだろう」と相手に期待すると、はぐらかされて、人間に落胆する。そう、人は自分がかわいい。

自分がかわいい者同士の会話はどうしても、人間の奥深い部分や魂のふれあいまでは到達しない。せいぜい職場の人間関係の、仕事の話、上司の悪口、当たり障りのないことで占められる。

 

仕事がすなわち人生であり、多大な時間を費やし情熱を傾けられる人は幸せだ。仕事を楽しみ、やりがいを感じ、日々が充実する。しかし、どうもしっくりこないと思っている人も当然存在する。仕事自体は楽しい。しかし、職場での人間関係に疲弊し、後ろ向きな気持ちになって、仕事全体が嫌になってしまった場合どうすべきか。  続く

何かを作ること

今日はエフェクターエレキギターの音に効果をつけるもの、ペダル)制作に勤しんだ。

プラモ作りみたいに、いざ始めると夢中になってしまう。完成して音を出すと、善し悪しは別にして、自分の作ったものだからこそ特別感がある。大げさな言い方だけれど命が吹き込まれる。血のつながった存在とでも言おうか。これはエフェクターに限らず、あらゆることに言える。作るとは創造すること。自分の分身を世に産み落とすこと。

音楽や文章や絵画だってそう。それが人に評価されるされないは全く関係ない。作るとは生きている証であり、人である以上、作ることは本能ではないか。ゲームをすることだって、自分なりの物語を描いているとは言えないか(受け身だけど)。作ることの最も純粋なものが芸術だと思う。生活に芸術があるのって、最高だ。芸術のない生活など潤いのない無味乾燥な暮らしだ。

 

経済も大事だけれど、もっと文化に光を当ててほしい、国は。

スピーチについて

時節柄、スピーチを聴く機会がある。率直に思うことは、話は簡潔であるほど効力を発揮するということ。だらだら長く話すこと、これはだめだ。どんなに美辞麗句を並べても、相手に聴く気の失せてしまってはどうしようもない。短ければ短いほど良い。

 

また、変に凝った表現、うまいことを言ってやろうという欲深さは、文章、スピーチをだめにする。

中途半端ですんません。今日はすごい睡魔で… 失礼します。

今日は気分が…

仕事で嫌なことがあり、就寝前の今も気分が上がらない。何も手につかない。こういうときは、その気分に逆らわず、自分の大好きなことを考えるに限る。

 

僕の大好きなこと、挙げられるものはいくつかあるけれど、やはりギターになる。ピックアップをディマジオにしようか、いや、そこにお金をかけるなら教則本を買った方がいい、はたまた、音源を買うべきか。詰まるところ、買うことばかり考えてしまう。ストレスと買い物の関係って何かしらありそう。知っている人、教えてください。

贈り物

職場で、ちょっとしたお菓子をデスクに置いていく人がいる。つまり贈り物だ。

僕がその贈り物を見てまず思うことは、お返しをしなくてはいけないということ。まさしく「しなくてはいけない」という義務感にとらわれる。こういう、物を贈る、返すがなく、人付き合いができたらどんなに自由だろうか、わずらわしくないだろうか。

 

贈り物の役割とはいったいなんだろうか。

 

偏見かもしれないが、女の人はこのようなやり取りを好む傾向がある。むしろ、贈り物を選ぶことを楽しんでいる側面がある(人に依るだろうが)。どのような心理から贈り物をするのだろうか。

恐らく、ほとんど見返りを求めてはいないだろう。ただ、お世話になっているからとか、これを食べさせてあげたいという親切かつ優しい心持ちによるものだろう。このような気持ちからもらうのであれば、ありがたくいただくのが大人という者。お返しをするしないということは些末なこと。素直に受け取れば、それだけで相手は喜ぶだろう。

 

しかし、私はちょっとしたものでも、もらいっぱなしということに耐えられない。悪い気がするのだ。小心者の考え方なのだろう。損得でものを考え過ぎているとも言える。常にフラットな関係でいたいから、貸し借りはなしの状態でいたい。

 

贈り物とは人が人を求め、欲する生き物である以上、心の交流の一手段となる。人は誰だって、周囲の者と良好な関係を築いていたいし、敵など作りたくない。世の中、協力し、支え合わないと立ちゆかなくなる。まさに、社会生活を潤滑にする行為であり、損得は度外視し、社会の構成員としてのマナーとまで言える。

 

必ずしもお返しをしなくてはいけないという決まりはない。しかし、あまりに一方的にいただいてばかりというわけにはいかない。しかし、これが慣習化し、義務的にやらなくてはいけないという雰囲気になったなら本末転倒で、見栄のための物と化す。

 

やはり僕はなくていいと思う。

米は太る

米を腹一杯食べると太る。腹持ちがいいから、昼ご飯にカツ丼大盛りを食べると、夜まで腹いっぱいで、しかも夕食を無理して食べると、百パー太る。米は少なめがちょうどいい。

私の考え方は、朝は普通、昼は少なめ、夜普通。こんな感じの量で止められると痩せていくだろう。普通といってもわかりにくいだろうが、もう少し食べたいと思うところでやめる、もしくは腹は八分目である。体にいいのはおろか、頭(精神)にも良いに違いない。満腹まで食べると、だるくなり、何をするにも億劫になる。昼ご飯を食べ過ぎた場合は最悪だ。眠くなるし、いつまでたっても残胃感があるし。

ていうか、腹八分目で我慢できたら苦労はない。それができないから皆悩む。腹一杯食べないと損する気分にならないか?

ダイエットは苦しんでやるものではなく、楽しむものだ。スモールステップを踏んでいくのがいい。昨日より少しだけ我慢できたという小さな成功体験の積み重ねが、やがて花開くのだ。たった今の快楽を我慢して、将来への貯蓄をできる我慢強い人間が、人生において果実を手にすることができるのだ。少しずつギターを弾き、本を読み、もっと広い視野を得るために、やれることをやっていこう。